色々。

とある芸術家の死。

直接お会いしたこともないし、
作品もよく知らない。
名前もよく知らない。
でもその訃報が某SNSで流れてきたとき、
考えさせられるものがあった。

その方は割合に知名度もあり、
作品も世に出ているようだった。
ただ、精神的に困難な部分があり、
自ら命を絶ったという。

この過酷な世の中、
この国で芸術家は生きていけるのか。
死ね、要らない、と言われている気もする。
芸術が必要、と謳われていても
それは企業の戦略(あまり好きな言葉ではない)の
一環としてのものだったり。

ちょっと考えが極端ですかね。

我が身、そして自分の考えを少し省みて
反省するところもあり。
自分がかろうじて生きていけているのは
周りの方々が優しいから。
助けてくれる人たちがいるから。
今までの人生を振り返ると、
生きてこれたのが奇跡に近い。

作品が売れているわけでもないけれど、
応援してくれている人もいる。
思い上がってはいけない。
もっと勉強して、
もっと良い作品を作らなければいけない。
身体も心も大切にしなければならない。

そんな風に思ったり。

要領の良い、
人に取り入るのが上手なだけで
作品は「?」な芸術家がうまく世を渡っていく。
太古の昔からそういう作家はいたものの。
なんとも切なくなるわけで。

ここで、
「何のために作品を作るのか」
「富や名声のためなのか」
「表現、表現する、とは一体何なのか」
という疑問が再び湧いてきて。

答えが出なくても考えていきたい。
若干とっ散らかってるけれど。

SNS。

少し前からFacebookを一時停止状態にしています。
はっきりした理由はないのですが。
あるとすれば、他の人の連休キラキラ感を
あまり見たくなかった、とかですかね(笑)。

Facebookの良いところは、
色々な人の展示やイベントの情報が
流れてくること。
しかしこれも、最近は割り切っていて。
縁があれば見に行けるだろうし、
なければそのときはそうだったんだろう、と。

今のところ、特に困ったことはないと思います。
退会する勇気はまだないんですけど。
いずれ正式に止めるかもしれないですね。

Twitterなどでも思うのですが、
本当に様々な人がいるな、という。
自分自身もその中にいるわけですが。

SNSをやっている人たちの層というか、
質も変わってきたかな。
時代が変わったのも大きいのでしょうけど、
辛辣な投稿内容が増えたような。
社会の中での問題提起や、
新聞テレビしかなかった時代では
市民には流れてこなかったような情報を
得られるのは良いとして。

Twitterに顕著なのが、
不満をぶちまけること。
ぶちまけてもいいのですが、
言葉の使い方には気を付けるべきかと。
うっかり目に入ると心がどんよりします。
僕も仕事の不満を書いたりはするので
人のことは言えないですが(笑)。

ギスギスしている。
社会の空気を反映しているのでしょうか。

Facebookでも、
鬱陶しい絡み方をする人が増えました。
年配の男性に多いのですが、
何でも書けばいいわけではないですよね。
ネットだと許されると思ってしまう。
これは個々人のモラルとデリカシーの問題ですけど。

SNSをやる人の年齢層が幅広くなったのと、
スマホの普及で裾野が広がったのも大きいでしょうね。
自制心がないと、所謂「バカッター」や「バイトテロ」などが
起きてしまう。
知性の低下。

初期のSNSはもっと和やかだった気がします。
ゆるやかに、繋がっていこう、みたいな。
2ちゃんねるの影響も大きいのか、どうでしょうね。
だんだんこう、ギスギス具合が大きくなり、
時々しんどいです。

有用な情報を得られたり、
勉強になることも多いですし、
単純に楽しい気持ちになれる投稿があったり、
良い部分は取り入れて楽しみたいと思います。

諦めた部分。

諦めざるを得ない部分、というか。
でもそれは絶望の末に、というよりも
若干の希望を含んでいるような。

少し前は、「結婚」というものについて
願望があったのですが。
今でも、縁があれば、という気持ちが
ゼロではないですが。
あまり期待しないというか。

現実問題として、結婚は無理だろうな、と。
団体行動がそもそも苦手だし、
自分のようなだらしのない人間が
家庭を維持できる気がしない。
愛想を尽かされて、パートナーに逃げられる
という未来が容易に想像可能。
そもそも現状の経済状態では到底無理。

もう47歳ですから、
あとはいかに自分が楽しく、納得のいく
人生を送れるか。
そしていかに人に優しくできるか。
そこに重点を置いて生活していければ、と。

結婚というシステムについて、
疑問に思うことは色々あって。
結局、権力者が税金をむしり取りやすくするために
作ったものではないかと。
管理しやすい、とか。
勿論、好きな相手、愛する人と一緒に暮らしたい
思いはあると思うものの、
そこを利用されている気がします。
「結婚=幸せな生活」というプロパガンダも、
権力者側が作り出したイメージなのでは。

もっと多様な結婚(生活)があっても良いと思いますけど。
一緒に暮らすからストレスが溜まる。
最初は良いんでしょうけど。
程よい距離感を保つためには、工夫が必要ですよね。
だから、通い婚みたいなのをしやすくするとか。
お金はかかるでしょうけども。
離婚することのハードルの高さ。
それもどうかな、と。
プレッシャーになるだけなのでは。

僕は結婚したことがないですが、
恐怖を感じる部分が色々あるわけです。
婚活しようとも思わないですし。
子供は好きですが、
自分の子供となると責任重大(当たり前だけど)。
年齢的に子供は無理でしょうけど。
(親への反発から、子孫など残してやるものか、
孫など抱かせたくない、というのもある)

まずは自分自身を幸せにしたい、
そんな感じでしょうか。
最近、制作が楽しくて没頭しています。

温度と皮膚感覚。

僕は春という季節がとても苦手で、
毎年この時期は体調が悪くなってしまいます。

おそらく、気候の変化に身体がついていけないこと
が原因かと思うのですが。
中でも気温の上昇がしんどいですね。

極端な暑がりなので、
温度変化には敏感です。
どうやら23度というのがひとつの分かれ目のようで。
それを超えると「暑い!」と感覚器官が認識します(笑)。

この過敏症というのか、
自分の体質には子供の頃から悩まされ続けています。

いっそのこと夏までいってしまえば良いのですが。
突き抜けた暑さのほうがまだマシで、
中途半端な生温さが本当に駄目ですね・・・
ふわふわした感じで気持ち悪くなってしまので。

季節の変化についていけていない実感、
フィットしていけてないことに対する苛々、
落ち着かない気持ちはまだ続くのでしょう。

こうした自分の特性については、
年を重ねるにつれて気付いたことでもあります。
なので、「そろそろ来るな」など事前に気持ちの準備を
することが出来ます。
でも、だからといってどうということもないのですが(笑)。

毎年毎年、早く過ぎ去ってくれ・・・!
と思いながらこの季節の日々を送っています。

プラスとマイナスと。

相変わらず絡まれやすい性格です。

性格というのか、
何かそういうものを発しているんでしょうね。
そこをつけこまれるというか。

勿論、そんなことを仕掛けてくるのは
一部の人たちで。
誠実に接してくれる人もたくさんいるわけです。

何故、そんな風に嫌な感じで絡んでくるのか?
相手を理解しようとしてみた時期もありましたが
無駄なだけなので止めました(笑)。
大体の理由は分かっていますし、
そもそも時間と労力が勿体ないですから。

絡まれるというのは、
なめられやすいということ。
しかし自分の性質は持って生まれたものですし、
この年齢になっては変えることも難しいでしょう。

人には誰にも長所と短所があって、
それは一枚のコインの裏表のようなものかと
(長所と短所というのは社会の中でのことなので、
基準は他人との関わりの中にあるわけですが)。

少し前にも書いた気がしますが、
近頃は開き直りつつあります。
マイナスに思える面もプラスに繋がっている。
短所も長所になり得る、ということ。

そこを意識し始めたところ、
やるべきことが見えてきましたし、
出来るだけ無理しないようにコントロールすることも
可能になってきたと思います。
行動(範囲)も律するようになってきました、
危険を避けるために。

しかし思わぬトラブルも起きるわけで。
それはもう事故と思うしかないですね・・・。

自分のプラス面を伸ばす。
マイナス面はなんとかかんとかなだめつつ。
しんどいことも修行ですね。

人と人の間にあるもの。

これだけ交通やテクノロジーが発達すると
日本というより世界、地球が狭いような
錯覚に陥ることがあります。

この世界で人類が訪れたことのない場所は
実はたくさんあると思いますが(深海など)、
インターネットの影響もあり、
インフラがある程度あれば外国も近く感じますよね
(費用は掛かりますが)。

しかし、人と人との間の距離というものは
とてつもなく遠く離れたものなのでは、と感じて
時には途方に暮れてしまいます。

近しい人、親しい人でもそうです。
身内レベルでも知らない面は多いでしょうし。
言えない、言わないことも山ほどあるでしょう。

何でも言葉にすれば良いものではないと思うので
そうすれば知らないまま時は過ぎ去っていきます。
知らないほうが良いこともあります。

距離が近すぎる不幸。
でも人のことを知りたくなれば、
近付かなければなりません。
そこから物語が始まると思うのですが、
ハッピーなことばかりとも限らないでしょう。
ハッピーになる可能性も同じくらいありますけど。

踏み込みすぎると不快に思われたり。
しかし、適度な距離というものに正解など無いわけで
人間は完璧な機械ではないですから
適切な位置を外れてしまうこともあります。

そのクッション材として思い遣りや気遣いがあると
思うのですが、
その存在自体を忘れてしまったり。

距離感の基準も人それぞれですが、
クッション材を忘れずにいたいものです。
そして、なんとかなる、きっと。
という良い意味での楽観的な思考。

シビアな時代ですが、
人間らしさを前向きに捉えたいですね。