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Weblog_ShinobuTERADA

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Weblog_ShinobuTERADA
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寺田忍のブログ。
日々のこと / 制作のこと。


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迷いと転換。

2018/05/27 21:14
昨年の九月にアイスランドでの滞在制作から帰国して、
自分自身の中の何かが変わってしまいました。

変わってしまった、というと悪い意味合いにもとれますが
必ずしもそうでもないようで。
良くも悪くもなのか、良いのか悪いのか、
そこはまだよく分からないでいます。

そこから、迷いも始まりました。
一時期はその迷いがとても苦しかったのですが、
少し前から開き直るようにしています。
何と言いますか、迷いを迷いのまま受け入れるという感じで、
流れに任せてみようかな、と。

人間には多くの可能性があると思います。
何か新しいものが見つかるような、
そんな気もしています。
そして、ポジティブな気分にもなっています。
それは全てを押し倒すようなエネルギーではなく、
日々を静かに、しかし楽しめるような、
そんなものです。

毎日ひとり部屋で制作していると、
少しずつ作品が進められれうことが嬉しくなります。
それも以前と違う部分かもしれません。

現在の状態、そしてこの変化が良いものなのか、
良い方向に行くのか、それは見当もつきませんが
明るい予感は抱いています。
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どういうことなんだろうな、と。

2018/05/24 19:14
今の職場で働き始めてから約一ヶ月が経ちました。
先輩方も優しいですし、環境も給与面も割合に良いので
やりがいがありますね、アルバイトですが。
(過去、相当酷いところにも在籍していたので)

某ショッピングモールでの清掃業務なのですが
なかなか仕事量は多いです。
でも清掃の現場は何処でもそんな感じなので
仕方ないですね。
清掃業界に入って、いつの間にか十年ほど経ちます。

どんなところでもそうではありますが、
これはどういうことなんだろうな、と思うこともあり。
現在の僕の受け持ちの作業の中に、トイレ清掃があります。
男性用もですが、女性用トイレも担当しているんですね。
清掃業界ではあまり無いパターンなのですが、
人手不足のために男性がやらざるを得ないのでしょう。

男性が女性用トイレを清掃する、というのは
なかなか難しいものがあります。
従業員の方々がガンガン入ってくるので、
出てくるまでしばらく待っていなければなりません。
当然仕事は止まってしまいます。
効率の悪いこと甚だしいですね。

そんな中、テナントさんから苦情が入ったそうです。
「男性が清掃していると使いづらい」と。
そう言われても・・・
僕は上から言われて仕事としてやっているだけであって。
それに、別に好き好んでトイレ清掃をしているわけではないのですが。
というか、僕はそんな苦情を予め想定していたので、
超スピードでなるべく早く終わらせるように努力していましたし、
なるべく気を使いつつ作業をしていたんですけどね。
(ちなみに僕以外のスタッフもこの作業をしています)

苦情があったということで、
お店の方とうちの清掃会社で相談して、
清掃中は従業員の方には他の階のトイレを使用してもらうことに
正式に決まりました。
その旨を表記したパネルも作って、
トイレ清掃をしている間はドアに掲示するようになりました。

しかし。
それでも平気な顔をして入ってくる人も結構いるんですよね。
びっくりしました。
上の人からの話が下りてきていないのか、
聞いてはいるけれど無視しているのか。
別に良いでしょ、という感じなのか。
僕がなめられているのか・・・。

パターン1
「すみません、清掃中なんですが・・・」
「あ、流しの鏡でお化粧直しているだけなんで大丈夫です」
「(ええ・・・)」
→流しの清掃が出来ないんですが。

パターン2
「すみません、清掃中なんですが・・・」
「分かってるけど、急いでるのよ!(プンスカ)」
「(ええ・・・)」
→それを言ったら誰でも使って良いことになっちゃうでしょ、
しかもなんでキレているのでしょうか。

もうですね、僕は諦めましたよ。
この人たちは自分が良ければ構わないんだな、と。
清掃員って軽く見られがちですしね・・・。

というか、そんなことを言うくらいなら、
苦情なんか入れなければ良いのでは・・・
その苦情入れた人が余計なことをしてくれたせいですから。
でも見つけ出して叩くわけにもいかないですしね。

一番良いのは、女性用トイレの清掃は、
女性の清掃スタッフが担当することですかね。
そのためにも人員を増やして欲しいですね・・・
このままではなかなか厳しいかと。

色々な人がいるなあ、と人間観察のつもりで
淡々と働くことにしています。
人間って面白いですよねえ、とほほ。
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何のために?

2018/05/20 21:55
何のために、何かに形を与えてそれを世に問うのか?
それについてずっと考えています。

つまり、表現行為の目的は何なのか、ということです。

それは人それぞれだとは思います。
中には売れるため、名声を得るため、
芸術家という肩書が欲しい、とか。
モチベーションとしては、何れでも良いのかもしれませんね。
ただ、そうした人の精神は作品を通して透けて見えますし
話していても一発で分かってしまいます。
それにそもそもそれらは目的というよりは、
行為の結果として得られるものだと思います。

何のために作品を作り、発表するのか、
それが年を追う毎に分からなくなってきています。
それでも僕を動かしているものは、
大切なものを形として遺したい、という気持ちです。

どうしても形にしてそれをこの世の中にものとして
存在させたい。
そういうものが僕の中にはあるんです。
その、形になったものが売れるかどうかは分かりませんし、
自信も無いのですが。
その形になったものを伝えたい、というよりも遺したい。
今の僕にはそれが全てです。

そのためには分野や素材が変わっていくかもしれません。
僕がそれをやらないと、その原型は時の経過とともに
忘れ去られ、無かったことになっていくでしょう。
そうしたものは、この星が出来て人類が誕生して以降、
限りなくたくさんあったと思います。

埋もれていきそうなドラマ。
それを形にするのが僕の仕事だと思っています。
それはある種の供養に近いのかもしれません。

最近つくづく思うのは、僕はあくまでも機械、フィルターにしか
過ぎないということです。
などと書くとちょっとオカルトっぽく思われるかもしれませんが。

「何かに作らされている」感覚があります。
材料は僕の中にあるのですが、
それを使って作らされているように感じます。
しかし、芸術家というのは多かれ少なかれ、
そうした部分があるような気がします。

僕らは単なるペンです。
インクは自分の中にありますが、
誰が補充してくれているのか分かりません。
手の中に握られ、動かされ、インクを放出する。
そんな存在なのです。
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バランス。

2018/05/20 04:23
バランス、っていうものは大事なんだとは思いますが
あまりそれに傾き過ぎるのもどうなのかな、と。

この世、この現代社会で生きていくためには
ある程度の精神的、肉体的にバランスを保たないと
なかなかしんどい状態になってしまう。

食生活や睡眠などの生活リズムについても言えますが。
ただ、正直この今の時代に於いては、
バランスの良い生活というものは、あくまでも理想、
のようになっているような気もする。

何しろやること、やらなければならないことが多すぎる。
それに加えて、やりたいこと、もある。
そうなるとバランスをとろうと思っても現実問題として
時間が足りない。
そうなると、睡眠時間が減る。
食事についても疎かになる。
(この辺は人によりますが)

作品を作るのに、
精神的なバランスが崩れているほうが良い作品を作れる、
という不思議な現象が確かにあって、
僕もしばしば経験するところです。

バランスが崩れて、良い作品が作れる、というのは
しんどいことでもあります。
どっちをとるか、両立出来るのか。

しかし、ぎりぎりのバランスで生きていかなければならない
状況が多過ぎる。
でもそれは仕方のないことなのかもしれない。
記事へなるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 1 / トラックバック 0 / コメント 0


表現と人と。

2018/05/02 19:07
少し前に、とある著名な写真家のパワハラ的行為を
告発したモデルさんの記事がネット上に出ていて、
話題になっていました。

最近、表現、表現する、ということの意味とか目的とか、
「表現」という言葉に対しての違和感とか、
そんなことについて考えることが多いです。

人を傷つけても表現をするべきなのか。
それは結果的にそうなってしまうことは、
遥か昔からあるのだと思います。
その犠牲を分かっていながらも、
ものを作らないではいられない、
それが芸術家なのだと思います。

でも、傷つけられた人の気持ちも分かるつもりです。
僕は常々、芸術家というのはろくなもんじゃないと
思っていますから(笑)。
自分自身も含めてですけど。
だからこそ、人と違った視点で物事を見ることが出来たり、
新しい価値を生み出したりすることが出来るのでは
ないでしょうか。
あまりに人格が破綻している作家が実際身近にいたら
嫌ですけど。

その、モデルさんによる写真家についての告発。
僕はなかなかすっぱり割り切った結論を出せないでいます。
この件については、立場によって捉え方、感じ方が
だいぶ違ってくるのではないでしょうか。
アーティスト、モデルさん、評論家、鑑賞者、
それほど美術などに関心が無い方々、等々。

僕はどちらかと言うとものを作る側の立場にいますが、
その行為や業界も含めた美術というものに対して
冷めた目で見ていたりもしています。
それでもやはり、何かを表したい、せずにはいられない、
そんな人間です。
なので、その写真家を批判したくもなりますし、
擁護もしたくなります。
モデルさんに対しても同じです。

表現という言葉、その行為について
何かが見えてきそうな、
そんな気がしています。
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場所の終焉。

2018/04/24 23:54
ひとつの場所が終わりました。

引っ越しと引き渡しも完了したようで、
何かが確実に終わり、変わっていくという実感があります。
僕もその引っ越し作業を少しだけ手伝ったのですが、
そうした変化や転換点を見て、体感出来たのは
貴重な経験になったと思います。

今住んでいる街の変わり様、そのスピードには
ちょっとついていけないものさえ感じます。
八年前に越してきたときとは流れが違ってしまいました。

思い出、思い入れのある場所がどんどん無くなっていきます。
時代の流れ、ということで仕方がないのでしょうが、
寂しいものですね。

今まで、幾つかの街に滞在してきました。
一ヶ月ほどの滞在制作(アーティストインレジデンス)
も含めて思い出すことは、
その場所の温度や湿度、風の匂い、太陽の光、街並みの色彩、
様々な人たちとの暖かい交流、そして感情の行き違いなど、
でしょうか。

濃度には差があっても、
懐かしい記憶が蘇ります。
現実的には難しいのですが、また訪れたいという気持ちが
こみ上げますね。

あの場所・・・この場所・・・あの人は元気だろうか。

いくらインターネットが発達した世界とはいっても、
実際にその場所に立ってみるとやはり圧倒されるものがあります。
四年前にスペインでの滞在制作に参加しました。
僕はそれまで海外に行ったこと自体がほとんど無いのでした。
学生時代に友達と短期間中国に行ったことはあるのですが、
色々なことをその友人にまかせきりでしたし。
初めてのヨーロッパ、しかもラテンなノリのスペイン。
空港からバスに乗り、その車中から見えた風景に
頭を金槌で殴られるような衝撃を覚えました。
バルセロナに二ヶ月間滞在していたのですが、
毎日そんな状態が続きました。
日々、ショック。
とても熱い(暑い)街でした。

その地を再び訪れたいと熱望しても、
切なさや懐かしさとともに心の中に留めておいたほうが
良いのかもしれません。
また行ったとしても、あの時と全く同じ空気は味わえませんし。
結局、一度きりの時間を僕らは過ごしているんですね。

心の中には分厚いアルバムが仕舞ってあって、
たくさんの写真が詰まっています。
今ではもう失われてしまった場所も含めて。

切ない思い出ばかりが増えていくような気もします。
年ですかね(笑)。
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言葉の美しさ。

2018/04/11 12:21
日本人にとって英語の習得というのは、
なかなか骨が折れるものだな、と日々思います(笑)。

特に僕はリスニングが苦手です。
これは多くの日本人にとっての悩みのようで、
リスニングがもう少し出来たら・・・というのは
よく聞きますね。
発音も難しいですが、
これは口腔内の構造が英語圏の人々と日本人では
形が全く違うというのも原因のひとつらしいです。

僕がその他に少しだけかじった言語は、
スペイン語、フィンランド語、アイスランド語など。
これらは海外での滞在制作のために勉強しました。
といっても、挨拶くらいしか喋れませんが。
大学のときはドイツ語を第二外国語で
履修していました(今ではすっかり忘れています・・・)。

他の国の言語を学ぶと、日本語に対しての意識が変わります。
僕は、文章の構造や言葉の並びに敏感になりました。
これは面白い発見でしたね。
他の人はどうだか分かりませんが、そういう変化が
ありました。

日本語の持つ美しさも再認識しました。
言語や芸術というのは環境の影響を受けるのだと思います。
四季があること、特に湿気が感覚に与えるものは
大きいと気が付きました。
それが色彩感覚や文章の繊細さに繋がっていると。
音楽に関してもそうかもしれません。
しっとりした部分が、現代の日本の芸術にも受け継がれています。

僕にとっての日本語、そしてその文章、文体というのは
「障子」のイメージです。
木の細い桟が組まれ、そこに白くて光を透過する、
薄い紙が糊で張られている。
それが季節によってはピンと張り詰めたり、
弛んだりする。
開け閉めするときにたてられる、スーっという音や
カッカッと音をさせながら引っ掛かりながら開く具合など。
日本の小説を読んでいるとき、
頭の中には「障子」的なイメージがあります。

文章というものも僕はビジュアル表現の一種でもあると思っていて、
言葉の並びが目に入った瞬間に「ああ、平面構成だな」という
実感がいつもあります。
好みの構成を見て、ああ美しい・・・と感じます。
自分にとって不快な言葉の並びを見ると、
正直本を投げ捨てたくなりますね(笑)。

漢字、平仮名、片仮名のバランス。
漢字が多いと、ちょっと固くて重々しい。
平仮名は優しい、優雅。
片仮名は洒落っ気と異文化、中間的な形。
それらによって平面構成がページの中で作られているのです。
なので、物語の進行とともに、
そのビジュアル的な構成も楽しむ、という感じです。

普段日本語を使っていても「なんて難しいんだろうか」と
思います。
社会生活の中で使われる敬語表現の豊富さなんかもそうですね。
漢字もどんどん忘れてしまいますし(スマホなどの影響か)。
日本人の変態さの原因はこんなところにあったりして。

日本人の婉曲的な表現に対して、海外の人から非難されることも
あるようですね、分かりにくいとか。
確かにそういう面もあるとは思うのですが、
それも日本語の持つ美しい特性ではないでしょうか。
大体、そんなめんどくさいことをすること自体、
ある種の美学のような気がします。
だって遠回しな伝え方をするより、ズバッと言ったほうが早いですし。

海外の人とコミュニケーションをとるのに英語を学ぶことは
重要だと思っていますし、日々実感しています。
しかし、こんな時代だからこそ日本語の持つ美しさを
改めて見つめてみるのも良いかと思います。

僕は書店をぶらぶらするのがとても好きなのですが、
迷いに迷って本を買うときの、あの高揚感。
その本の重さ、表紙のデザイン、紙の匂い。
そしてページを開いたときの文字列。
そんなことにいまだにときめいてしまいます。
ある種のフェチシズムだと思いますが、
そういう人は意外と多いのではないでしょうか。
紙媒体がいまだに根強く残っている理由は、
そんなところにもあるのでしょうね。
僕は自宅の本棚に並んでいる本の背表紙を見るだけでも
楽しいです。

言葉って言ってしまえば単なる記号なのに、
想像力を使ってイメージを膨らませることが出来る。
それをある程度、他人同士が共有出来る。
そして空間を飛び越えることも出来る。
アナログなツールではあるのですが、
それ故の強さと普遍性も持ち合わせているというところに
惹かれるのかもしれません。
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