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Weblog_ShinobuTERADA

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Weblog_ShinobuTERADA
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寺田忍のブログ。
日々のこと / 制作のこと。


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言葉の美しさ。

2018/04/11 12:21
日本人にとって英語の習得というのは、
なかなか骨が折れるものだな、と日々思います(笑)。

特に僕はリスニングが苦手です。
これは多くの日本人にとっての悩みのようで、
リスニングがもう少し出来たら・・・というのは
よく聞きますね。
発音も難しいですが、
これは口腔内の構造が英語圏の人々と日本人では
形が全く違うというのも原因のひとつらしいです。

僕がその他に少しだけかじった言語は、
スペイン語、フィンランド語、アイスランド語など。
これらは海外での滞在制作のために勉強しました。
といっても、挨拶くらいしか喋れませんが。
大学のときはドイツ語を第二外国語で
履修していました(今ではすっかり忘れています・・・)。

他の国の言語を学ぶと、日本語に対しての意識が変わります。
僕は、文章の構造や言葉の並びに敏感になりました。
これは面白い発見でしたね。
他の人はどうだか分かりませんが、そういう変化が
ありました。

日本語の持つ美しさも再認識しました。
言語や芸術というのは環境の影響を受けるのだと思います。
四季があること、特に湿気が感覚に与えるものは
大きいと気が付きました。
それが色彩感覚や文章の繊細さに繋がっていると。
音楽に関してもそうかもしれません。
しっとりした部分が、現代の日本の芸術にも受け継がれています。

僕にとっての日本語、そしてその文章、文体というのは
「障子」のイメージです。
木の細い桟が組まれ、そこに白くて光を透過する、
薄い紙が糊で張られている。
それが季節によってはピンと張り詰めたり、
弛んだりする。
開け閉めするときにたてられる、スーっという音や
カッカッと音をさせながら引っ掛かりながら開く具合など。
日本の小説を読んでいるとき、
頭の中には「障子」的なイメージがあります。

文章というものも僕はビジュアル表現の一種でもあると思っていて、
言葉の並びが目に入った瞬間に「ああ、平面構成だな」という
実感がいつもあります。
好みの構成を見て、ああ美しい・・・と感じます。
自分にとって不快な言葉の並びを見ると、
正直本を投げ捨てたくなりますね(笑)。

漢字、平仮名、片仮名のバランス。
漢字が多いと、ちょっと固くて重々しい。
平仮名は優しい、優雅。
片仮名は洒落っ気と異文化、中間的な形。
それらによって平面構成がページの中で作られているのです。
なので、物語の進行とともに、
そのビジュアル的な構成も楽しむ、という感じです。

普段日本語を使っていても「なんて難しいんだろうか」と
思います。
社会生活の中で使われる敬語表現の豊富さなんかもそうですね。
漢字もどんどん忘れてしまいますし(スマホなどの影響か)。
日本人の変態さの原因はこんなところにあったりして。

日本人の婉曲的な表現に対して、海外の人から非難されることも
あるようですね、分かりにくいとか。
確かにそういう面もあるとは思うのですが、
それも日本語の持つ美しい特性ではないでしょうか。
大体、そんなめんどくさいことをすること自体、
ある種の美学のような気がします。
だって遠回しな伝え方をするより、ズバッと言ったほうが早いですし。

海外の人とコミュニケーションをとるのに英語を学ぶことは
重要だと思っていますし、日々実感しています。
しかし、こんな時代だからこそ日本語の持つ美しさを
改めて見つめてみるのも良いかと思います。

僕は書店をぶらぶらするのがとても好きなのですが、
迷いに迷って本を買うときの、あの高揚感。
その本の重さ、表紙のデザイン、紙の匂い。
そしてページを開いたときの文字列。
そんなことにいまだにときめいてしまいます。
ある種のフェチシズムだと思いますが、
そういう人は意外と多いのではないでしょうか。
紙媒体がいまだに根強く残っている理由は、
そんなところにもあるのでしょうね。
僕は自宅の本棚に並んでいる本の背表紙を見るだけでも
楽しいです。

言葉って言ってしまえば単なる記号なのに、
想像力を使ってイメージを膨らませることが出来る。
それをある程度、他人同士が共有出来る。
そして空間を飛び越えることも出来る。
アナログなツールではあるのですが、
それ故の強さと普遍性も持ち合わせているというところに
惹かれるのかもしれません。
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死という別れをきっかけに(2)。

2018/04/10 08:54
続きです。

兄の死後、僕自身の中で変わったこと、
変わってしまったことが幾つかあるのですが、
という話でした。

それを少し書いてみたいと思います。

ひとつは、臆病になってしまったということです。
特に自分の健康について。
と言っても、年一回血液検査を受けるとか、
なるべく毎日野菜を食べるようにするとか、
そんなことくらいですけど。

無茶も出来なくなった気がします。
(無理はそこそこしているような・・・笑)

兄が病床で苦しんでいる姿が脳裏に焼き付いていて
今でもそれを時々思い出します。
僕も過去に入院して手術を受けた経験があるのですが
短期間でも、なかなかしんどかったです。
なので、入院などは出来ればしたくないですね・・・
当たり前かもしれませんが。
いずれにしても、健康に気を使うようになったのは
良いことなのでしょうね、きっと。

変わったことのもうひとつは、
人に厳しくなってしまったことです。
これはあまり良い変化とは言えないのでしょうけど。
どうしてそうなってしまったのか、
その過程は正確には分からないのですが。
でもたぶん、「人間死んだらお終い」という意識が
強く刻まれてしまったからだと思います。
それ故、「そんなことしている場合じゃないだろう」とか
「もっとしっかりしろよ」などという思いを
人に対して抱いてしまうようになったのかもしれません。

その癖、自分自身に対しては物凄く甘々なので、
我ながら最低だな、と心底嫌になることが多々あります。

考えが固くなった面もあると感じます。
その根っこにあるのは、「恐れ」なのか、
自分をかわいく思うようになったからなのか・・・。

(しかしそれもこの二、三年で変わった気がします。
意識的に緩やかな気持ちを持つようにしているのも
あるのですが、
本当に大切なことがあれば良いと思えるように
なりました、それは今もまだ探し中ではありますけど)

兄が亡くなった後に変わったことは他にもあります。
それは、少しだけ大人になったことでしょうか。
それまでの僕は、非常に調子に乗っていました。
美術の世界で成功することしか考えておらず、
酷い言葉で結構人を傷付けてしまっていました。
(今でも自信は無いですが・・・)
最近は、言動にはなるべく気を付けるようにはなりました。
時々大失敗して落ち込みますけど。

この「少しだけ」大人になったことと、
人に厳しくなってしまったことは繋がっている気もします。
「少しだけ」故に、まだまだ成熟していないのでしょうか。
人に優しく、というのも多くの意味がありますが。

以前も書いた気がするのですが、
人生に於いてネガティブに見えることも意味のあること
なのだろう、ということ。
今いるこの自分、結果としての現状は必然の流れの結果だと。
川の流れが岩にぶつかって変化しながらも続いていくように。
障害物があっても、流れていくことは変わらないと。
そしてその先は何処かに辿り着くということ、
海か湖か、何処かしらに流れは注がれていく、という。

我ながら変な人生で、
よくこの年齢まで生きてこられたな、という実感があります。
良くも悪くも、貴重な経験をしてきました。
文字通り地獄のような出来事も、血となり、肉となりました。
そして、自分の中の器に様々な種類の形無きものが
少しずつ溜まってきました。
それらに形を与えて、放出するのがこれからの僕の仕事、
そう考えています。

いつの間にか、ゲージは目盛りいっぱいまで上がり、
満タンになっていたようです。
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死という別れをきっかけに(1)。

2018/04/08 17:08
今日は、亡き兄の七回忌法要のために
ちょっとだけ生まれ育った街に戻りました。

兄が病気で亡くなったのは、2012年の春のこと。
その頃僕は近畿地方に滞在して、作品制作をしていました。

大学病院に医師として勤めていて、
仕事中に脳梗塞で倒れた兄はそのままそこに入院。
僕は新幹線を乗り継いで栃木県に駆け付けました。
それから、病室で短期間付き添いをしていたのですが
それは壮絶なものでした。

意識はあっても、身体がほとんど動かせない。
伝えたいことがあっても、言葉に出来ない。
例えば、寝返りがうてないので背中や腰が痛くなる。
呼吸がスムーズに出来ない、痰も激しくからんで苦しい。
それ以外にもあちこち痛むようなのですが、
それを正確に伝えられない。
兄にとっては地獄のようなものだったと想像します。
時間が経つにつれて、片方の腕の指先と頷く動作で、
少しずつコミュニケーションを取れるようになりましたが。

亡くなる前の日のことです。
僕は今まで無理をさせてしまったことを兄に謝りました。
家族の将来のことで、大きなプレッシャーが掛かり続け、
それが病気のきっかけになったのは確かだったからです。
僕自身、その状況に甘え切っていました。
なるべくはっきりと聞き取りやすい声で謝罪しました。
すると兄は、使える範囲の身振りで「いいよ」と伝えてくれました。
宿に帰った僕は、布団の中でひとり、大泣きしてしまいました。

次の日になって容態が急変、兄は帰らぬ人となったのでした。

互いに大人になってからは特に仲が良かったわけでも
ありませんでしたし、
考え方や環境の相違もあって、
話すこともそれほど多くなかったのですが、
それでも子供の頃に一緒に遊んだことなどを思い出すと
今でもつらいものがあります。

遺品整理のために、兄が独り暮らしをしていたマンションの部屋を
訪れたときのことです。
その荒れ方にショックを受けました。
本当にここに住んでいたのだろうか、というほど。
風呂やトイレは真っ黒、リビングの壁には分厚く溜まった埃で
模様が出来ている。
過酷な生活をさせてしまっていたんだな、と落ち込みました。

遺体が栃木から、実家のある茨城に帰ってきて
改めてその亡骸を前にしたときに、
頭がくらくらするような衝撃を受けました。
確かに生きていたのに、今はもうここには命が無い。
もう動くことはない。
目の前に横たわっているのは確かに兄の肉体なのに、
それは既に物(という表現はどうかと思いますが)なのです。

その事実。
生きている存在と、死んでしまった存在の違いとは何だろう?
その境目とは。
何故もう動かない、動いてくれないのだろうか。
でも目の前の事実は変わらず、圧倒的でした。

祖父母が亡くなったときも勿論悲しかったのですが、
兄は年齢が近いこともあって(僕とは年子でした)、
また違う感情に囚われたのかもしれません。
悲しみは、次第に違う方向に深化していきました。

その後、僕は再び近畿地方での滞在制作に戻りました。
でも、自分の中の何かが以前と決定的に変わってしまったのです。
少し長くなったので、(2)に続きます。

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形にして残しておきたいもの。

2018/04/04 02:00
何のために作品(美術に限らず)を作るのか、
それを常に考えていなければならないと思います。

最初の衝動は次第に薄まってしまうもので、
そこから先が問題なのでしょう。

金銭や名声を得る、という点での成功には
僕はもうあまり興味が無くてですね。
売れるためにえげつないことをしたくはないですし。
なんともゆとりな考えですけど。

今まで生きてきて、
最近になってやっと
「これは形にして残しておきたい」というものが増えてきて、
それが満ちてきた感じもありまして。
これは自分が形にしないと埋もれてしまう、
そんな意識が芽生えました。
売れるかどうか以前の問題で、
結果として売れたら良いとは思いますけど。

自分はあくまでもその物語を伝えるための
中間にある機械に過ぎない、そんな気がしています。
機械とか、フィルターとか、触媒とか。

芸術家は圧倒的な欲望が無いといけない、
そんな主張をする人もいます。
僕も以前はそんな感じで活動していましたけど。

特に昨年辺りから何かが変わって、
少しずつ自分が透明になっていくような錯覚を覚えています。

僕はあくまでも中間にある、何かなんです。
別にスピリチュアルなものに惹かれているわけではないんですけどね。

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さようなら、BankART Studio NYK。

2018/04/01 07:09
昨夜はBankART Studio NYKのさよならパーティ的なものへ。

三月いっぱいで現在の地から、新しい場所へと
移転するそうです。

僕が初めてBankARTでのレジデンスプログラムに
参加したのは、2010年の夏のことでした。
そもそも、レジデンス(滞在制作)自体が初めての体験でした。
その直前まで、作品制作と発表活動に関して酷く行き詰っていて、
それらの状況を打開したいという思いが強くありました。

しかし、滞在制作というものに対して、大きな不安がありました。
二ヶ月間も知らない人たちと共にひとつ屋根の下で作品を作る、
それは未知の領域レベルの挑戦だったので。
その少し前まで引きこもり生活をしていた僕にとって、
レジデンスに応募すること自体が大変勇気の要ることでした。

それでも思い切って書類を送ってみたところ、合格。
茨城県の実家に住んでいた僕は、
まずは二ヶ月間だけ横浜に住むことになりました。
(その後完全に移住、現在に至ります)

滞在制作の期間中、自分なりに必死で取り組みました。
制作は勿論のこと、他のアーティストとの交流や
コラボレーション等々。
時にはしんどいこともありましたが、
厳しさから得たものはとても大きいものでした。

今でも思い出すのは、オープンスタジオの前夜に
作品が倒壊してしまったことです。
これは完全に自分自身の油断からきたものなんですが。
その瞬間に茫然としてしまっていた僕を、
周りにいたアーティスト達、スタッフの皆さん、
代表の池田さんが助けて下さいました。
おかげでなんとか作品は立ち起こせたものの、
完成したときのものとはだいぶ変わってしまっていました。
しかし、強烈な出来事として今でも心に刻まれています。

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その時のレジデンスがきっかけで、
僕の美術の活動はそれまでとは比べ物にならないぐらいに広がりました。
BankART Studio NYKは大切な場所であり、原点のひとつです。
そして、単なる美術系の施設というだけではなく、
学校のようなものだったと思います。
当時から現在まで交流の続いているアーティストも多いです。

広さや充実した設備という点に加えて
人と人とが繋がれる空間という意味でも
あれだけの場所はなかなか無いかと思われます。
横浜に於いて、そして日本の美術界にとっても
宝のようなものだったのではないでしょうか。
そしてそれが遂に失われてしまいました。

BankARTという組織自体が無くなる訳ではない、
場所が移るだけだから、と単純に言い切れないものがあります。
文化とは、芸術とは。
結局僕らは単なる駒、餌、そしてモルモットのようなものでしか
ないのか、というもやもやした思いがあります。
横浜という街、そして日本という国に対しての疑問に繋がります。

と言っても。
新しい場所でのBankARTの活動には期待していますし、
僕自身もそれに関わっていけたら良いな、と思っています。
これは決して負け、なんかではなく新しい門出。

さすらい。
良い意味でそれがBankARTには似合っているのでしょう。
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腹を決めるということ。

2018/03/30 01:41
思考と行動を柔軟にすることと、
しっかり腹を決めるということは
矛盾せず両方大事なんですね、きっと。

ここ半年ばかり、
色々迷うことが多く。
なんとも落ち着かない日々なのですけども。
そんなに器用ではないので(という言い訳、笑)
偏りがちです。

いや、元々極端なほうへと行きやすいんですよね。
0か100かみたいなところがあります。

例えば、お酒を飲みに行って夜遅くに帰ってきて、
次の日早朝の仕事があったとして。
「きっと起きれないから寝ないで行ったろ!」とかいう
考えが湧き起こります。

あとは・・・
展覧会など色々見に行った日など、
食事をとるタイミングを逃し続けて夕方になり、
「まあいっか・・・」と、結局一日何も食べなかったり。
(微妙な例えですが)

そんな感じなので、
柔軟に、となるとひたすらふわふわしたり。
腹を決めるとかになると頑なになってしまったり。

(正確には柔軟=ふわふわ、ではないですけど
言葉の表現上、そう仮定します)

日々のルーティンワークをしっかりこなすこと。
いつもの思考からはみ出して作品を作ること。
規則正しい生活(ああ・・・)。
時には冒険。

そんなことを良い塩梅で出来れば、とは思いますが。
ああ難しい(笑)。

ここのところ、ふわふわ成分が多めなので、
決めるところは決めていきたいと思います。
ものを作ることについては、
分野とか方向性とか。
生き方については、
家庭を持たずひとりきりで生きざるを得ないことを想定して
どうしたらある程度安心して生活出来るか、とか。

これらのことって、数年前は迷いが無かったんですけどね。
たぶん、諸々壁にぶち当たった結果の弱気が原因かと。
以前は何も考えてなかったが故の変な勢いがあった、
というのもありますけど。

バランス、という言葉と概念は重要だと思います。
そこへの憧れもあるんですけど。
悲しいかな、芸術を生み出す上では
不安定さも必要なもので。
バランスバランス連呼することにも違和感を覚えますしね。

破綻するかどうか、いや破綻したら駄目ですけど。
ぎりぎりのところですね。
ある種のバランスではあるんでしょうけど、
危うさパーセンテージ高め。
幸せって何だっけ。

腹を決める部分と、
ふわふわさせる部分と。
その両立が僕にとっては難しいです。
自分不器用ですから・・・。

そんな春。
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桜の花の恐ろしい美しさ。

2018/03/25 23:39
今年もこの季節がやって来たな、という。

桜の花の美しさに感動出来る、
そしてそれをゆっくり味わえる環境にいると心底、
日本人で良かったと思える。

ただ、桜の花が圧倒的に迫ってくるのは
空恐ろしくもある。
狂おしいように心がざわざわする。
あの生命力に追い立てられるのかな。
大袈裟じゃなく、狂おしいというか、
正直狂ってしまうんじゃないかという程に。

美しい、綺麗だな、そして
恐ろしい、不安な気持ちになる。

ひとりで見るのは危険だから、
素面で見るのも危険だから、
花見という習慣が生まれたのかも、
なんて思ったりして。

植物の生きる力って凄まじい。
人間なんかよりずっと大昔から存在しているんだものね。
花っていうのもなんだか不思議なもので、
どんな理由であんなに美しいのか
(色々な形や色彩をそれぞれ持っているけど)。
それは人間がそう感じるだけなのか。
実は植物って、宇宙人が太古の昔に地球にぶっ込んだのだったりして、
とかね。

今日は友人達と桜を見つつ、楽しめました。
なんだかこう、久々に人間らしいことをした感じで(笑)。
しばらく集中して籠っているからなあ・・・心身共に。

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