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Weblog_ShinobuTERADA

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Weblog_ShinobuTERADA
ブログ紹介
寺田忍のブログ。
日々のこと / 制作のこと。


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色々。

2018/07/08 23:15
不思議と「この人はこういう人だな」みたいな感触というか、
イメージというものがピンとくることがあるのですが。
それはでも、あくまでもイメージであって、
見えているのは一部分だけなのだと思います。

他人の考えていることや思いを全て汲み取ることなど
不可能というか。
どんなことに悩み、喜び、日々一瞬一瞬を生きているか。
そこまでは分からないですし。

怖い人、と思い込んでいた人の優しい側面とか、
その逆も。
それぞれの人にはそれぞれの人生があり、
物語が生まれては消えていくわけです。

この世界、宇宙が発生して以降、
どれだけの人(と動物や植物など)が産まれては生きて、
死んでいったか。
それらの存在がその瞬間に抱いた思いも産まれては
誰にも知られないまま何処かへ消えていったという。

目には見えないものですが、
とてもたくさんの感情や、その結果の物語が
あったはずなのですが。
そのほとんどは残っていません。

そんなことを考えては少し怖ろしくなったりしています。
そして、自分自身の周り、そして自分自身が感じたことを
形にしたいという思いが湧いてきます。
結果として出来たものも、いずれ消えるのでしょうけど。

次第にギラギラした野望のようなものは薄れてきています。
その代わり、やるべきことがはっきりして、
それを着実に行っていくだけ、という確信はあります。
毎日少しずつしか進めませんが、
売れる売れないではなく、
やるのかやらないのか、それだけのような気がしています。
自分が透明に感じることも、
単なる機械なのではないかと感じることもあります。
動かされているだけなのかという。
その度に、ああもうそんなに居られないのかも、とか。

そんなとりとめのないことを思う日曜日でした。
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心と言葉の隙間。

2018/07/03 23:49
僕は、人の心というものは丸くて、
言葉は四角いものだと考えています。

あくまでもイメージなのですが、
心ってあやふやで、掴みどころがなくて。
言葉はデジタルな記号の集合体なので。

丸を小さな四角で埋めていっても、
必ず隙間が出来てしまいますよね。
だからその理屈でいえば、
言葉では心を正確に表現して伝える、
なんてことは不可能だと思うんです。

実際に、今まで生きてきてそう実感しています。

絵画や音楽だと言葉よりも近いところまでいける
ような気がします。
でもきちんと伝わるかというとどうでしょうか。

言葉は直接的な表現が可能で、
良くも悪くも強いですね。
誤解も生じます。
結局どんな表現手法を使っても、
真実の心は「正確には」伝えられないのかもしれません。

大切なのは、伝えようとする意志なのか。
間違って伝わっても仕方ないのか。
結果が良ければいいのか。

今日はそんなまとまりのないことを
ぼんやりと考えていました。


以下は随分前このブログに書いたものですが、
ふと思い出したので。
そういえばこんなこと書いたよな、と。

言葉が出にくい・・・構造。
http://blog.shinobuterada.com/200812/article_29.html

芸術の役割。
http://blog.shinobuterada.com/200806/article_25.html

昔の文章は読むのが少し恥ずかしいですね(笑)。
考えの基本は変わっていないのですが、
変化した部分もありますね。
10年も経っていますし、
文体が結構違うな、と自分でも思います。

この曲、大好きです。
https://youtu.be/3TpwqjxbYN4
くるり - 言葉はさんかく こころは四角 オーケストラVer.

おやすみなさい。
記事へなるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 1 / トラックバック 0 / コメント 0


敵とか味方とか、そんな感じの。

2018/06/29 20:14
関東地方、梅雨明け!したみたいですね。
やっとじめじめした季節が終わる・・・
でも今年の夏はとても暑そうですね。

近況、といっても特別無いのですが(笑)。
バイト、そして制作、という日々です。
制作に関してですが、
昨年あたりから作るものが変わりまして。
今年はそれの結果を出せればな、とは
思っています。

アパートの部屋で作品を作っているのですが、
だらけてしまうこともしばしば。
なので、制作用スペースがあったほうが良いのかも、
と思ったり。
でもそれは贅沢かも、とか。
色々考えると、部屋でやれば良いか、という
結論に落ち着きますね。

しばらくそんな生活をしていると、
あまり人に会わなくなります。
(先日、友人の引っ越しをちょっとだけ手伝ったくらい)
勿論、バイトでは職場の人たちに会いますけど。
なんというか、美術系の方々、といいますか。
それには別の理由もあるんですけどね。

三年ほど前から、美術関係の人たち、
特にアーティストから嫌な絡まれ方をされるように
なりました。
嫌味を言われたり、とか言葉の暴力が主ですが。
それなりに長く活動していると、
敵も増えるのは当然かと思います。
それは美術だけではなく、社会全般そうかと。
でも、そんな状況にうんざりしてしまったんですよね、
正直。

そういうものに負けたらいけない、という意見も
いただいたりして、それでもそうはなれなくて。
とにかく、嫌な感じの人たちからは距離を置くことにしました。
そうしたら、もやもやしていた気持ちも落ち着いてきて
安心して制作出来るようになりました。
僕にとっては静かな環境というものが
とても大切なようです。

敵、とはっきり区別してしまうのもどうかとは思います。
人への評価など変わっていくものですし。
しかし、現状そういう人たちがいるわけです。

反対に、常に味方になってくれる人もいます。
そういう人は、しょっちゅう会うわけではないです。
たまに会ってご飯食べたり、そんな感じです。
でもそんな関係性が長く続くことがありがたいわけです。

僕は昔、八方美人みたいなところがありました。
人と仲良くありたい、争いたくない、という。
その点ではだいぶ変わったと思います。

僕から喧嘩をしかけるということはほぼあり得ないので
一方的に攻撃(口撃)を受けるわけです。
そんな人たちが急激に増えました。
敵はどんどん出現してきました。

味方は少くなくて良いんです。
自分をある程度分かってくれて、話を聞いてくれる。
相手が何か問題を抱えていたら、話を聞く。
べたべたしなくても、時間や距離も越えられる。
普段会わなくても、何かあれば助け合える。

自分自身の性格的な特性にやっと気づけた感じです。
無理をして人々の輪の中に飛び込んできた、
そんなここ十年ほど。
しかし、それが自分にはかなり負担になっていたようです。

本当にやるべきことは何なのか?
そのためにはどのような生活をして、
どのような環境を作るべきなのか?
近頃は展覧会のレセプションやワークショップ、
トークイベントに行くのもしんどくなってしまいました。

そういえば、僕はとても内気な人間なのだよな、本来。
そんなことに改めて思い至ります。

暑くて文章まとまりませんが(笑)。
そんなことを考える今日この頃です。
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悪意や憎悪の生まれる瞬間とは。

2018/06/24 11:39
人と人との関わりの中で悩むことが多いですが、
それは現代人に共通のものなんでしょうね、きっと。

ある人と別のある人が仲違いをしてしまう、
いちばん最初のきっかけ、とは何でしょうか。
それは人それぞれだと思いますが、
僕が書きたいのは具体的な問題のことではないんです。

二人の人のうち、
どちらかに先に相手を憎む気持ちが生まれるのでしょうか。
その黒い萌芽に興味があります。
むくむくと芽生える、憎しみの芽。
その種自体は最初から植えられているのか。
その二人が争うことはそもそもの最初から決まっていたのか、
運命レベルで。
とすると喧嘩するしか選択肢はないのか。
その後に和解するとしても、その種は残り続け、
種子の中に籠った憎悪はまたいつか発芽するのか。

芽生えるきっかけは、言葉であることが多い気がします。
言葉の持つ力は、良くも悪くも強大です。
相手をポジティブにもネガティブにも変えていきます。
だとすると、発する前にその言葉を慎重に吟味する必要が
ありますが、咄嗟に出てしまうものですよね。
ストレスなどで理性が働かず、ストッパーが働かない場合。

いったん芽生えた憎悪はどうしたら良いのか、
放っておけばどこまでも育ってしまって、
童話の豆の木のように伸び続けるのかもしれません。
どこかで歯止めを掛けるには、どちらかが手を打つ必要があります。
「謝る」という行為もそのときに役立つかと思います、
万能ではないですし、効果がない可能性もありますけど。

必要なのは、勇気、でしょう。
謝るのには勇気が要ります。
自分は悪くない、と思っていれば尚更。
プライドもそれを遮ろうとするでしょう。
しかし、そこから変わっていくことが多いかと。

謝っても相手が取り合ってくれないかもしれません。
その場合は諦める。
時間を置く。
静観する。
など、幾つか手があります。

先に折れたほうが負け、という意識は捨てたほうが
後々になって良い立場につけると思います。
敢えて折れる、それは反対に「勝ち」でしょう。
勇気を出した人が勝ちです。
そこから、憎悪の芽の成長が止まって、
和解の芽が頭を出し始めるからです。
幸せな状況を作る人のほうが絶対上だからです。

・・・と書いてきましたが、
僕も今週、職場のその相手に会ったら謝ろうと思います。
文章を書いて、考えを整理。
今回はそんな記事でした(笑)。
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すみません、という言葉。

2018/06/24 03:30
ちょっと久しぶりの投稿、ですかね。
梅雨どっぷり、という感じの日々ですが
皆様お元気でしょうか。
この季節は湿気や日照時間の短さなどで
気が滅入りがちですね。

それに、イライラしてしまうというか。
僕は性格が細かいので(器が小さいのかも・・・)
日常で何かと気に障ることも多いです。

例えば、混雑している電車の車両間を歩いて移動する人。
意図は分かりますが。
降りる駅の出口に近いところで降りたいんですよね。
朝は多くの人が急いでいるので仕方ない面はありますが。
でもやっぱり邪魔臭いと思ってしまいます、
いちいち避けるのが面倒なので。
移動する側からすると、こっちのほうが邪魔に見えるのか、
嫌な顔をされたりします、ちゃんと避けてるでしょうが(笑)。
しかし僕みたいに気を使って避ける人のほうが少数派で、
身体をずらす気さえない人のほうが多いような気も・・・。

そんな些細なことでイラっときてしまったり。
たぶん疲れているんでしょうね、はぁ。

日本の都市部というのは人が多すぎて、
所謂パーソナルスペースが侵害されるのが当たり前。
それに慣れないことにはどうしようもないんですね、
おかしいとは思いますが。
でも、知らない人との距離が近すぎるとストレス感じるのは
やはりしんどいです。
ぶつかられたりしたら最悪の気分。

そんなとき、一言あればだいぶ違うと思うんです。
すみません。
これ、最高のクッション言葉だと思っているんです、僕は。
「日本人はすぐ謝る、欧米では・・・云々」という人もいますが
(そしてそれもまたある面では真実ではありますが)、
すみませんという言葉には謝るという以外の意味も
含まれているのでは。
「すみません」と「ごめんなさい」は違う、と僕の中では
線引きがあります。
「ごめんなさい」は謝る目的に特化していて、
「すみません」は謝るためにも使えますが、
柔軟に色々な場面で有効かと。
「すみません=Excuse me.」
「ごめんなさい=I'm sorry.」
と僕は勝手に考えています(正確には違うのかも)。

ごめんなさい、だとがっつり謝罪的な重い響きもありますが、
すみません、この柔らかさは人と人の間の関係性を
スムーズにします。
混雑した電車内や駅でぶつかっても(ぶつかられても)
すみません、その一言でお互いに気分がかなり違いますよね。
ぶつかったほうだって、やっぱり気にしますもの・・・
いや、世の多くの人は気にもしないのだろうか・・・うーん。

それでも、自分が絶対間違っていない、という確信がある場合は
すみませんも言う必要はありませんけどね、勿論。

それにしても、このストレス社会はなんとかなりませんかね!
職場でも色々あって、ですね・・・(略)。
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芸術と街。

2018/06/12 21:06
アートの欠片も感じられないような場所に住みたい。
近頃そんな気持ちも湧いてきました。

近年、芸術(特に現代美術)を売りにしてのまちづくりを
モットーにしている地域が非常に多くなった感があります。

この事に関してはだいぶ前に書いた記憶がありますが。

街の中にアーティストやミュージシャンなどが増えて
芸術活動が活発になる。
住んでいる方々がそれに興味を持ち、
交流したり、知識が増えたり、楽しんだり。
それは結構なことだとも思います。
日々の生活の中にアートの要素が増えていく、
潤いと刺激、楽しみが新たに生まれる・・・
とても素敵です。
しかし、その傾向に対して違和感を持つ自分も
いるんですよね。

僕自身、美術の活動をしているので
その恩恵を受けることも多いです。
現在、アートが盛んなところに住んでいますので。

しかし、生まれ故郷のことを思い出すと複雑な気持ちにも
なるんですよね。
あるときを境にして「アートの街」になった、故郷。
その頃既に美術をやっていた僕ですが、
正直ついていけませんでした。

突如として街に設置される現代美術作品。
それは風景を一変させました。
確かにアートを目的に来る人は増えました。
経済効果もあったでしょう。
しかし。

芸術というものは人に強いるものではないと僕は考えます。
見たい人は見ればいい、そうした性格を持つと。
しかし、アートの街はアートの押し売りをしていないか。
興味がない人にとっては疲れてしまうものではないのか。
そんな疑問もあります。
新たなアートファンを増やす可能性も勿論あるでしょう。
しかし、そういう人ばかりではない、と考えてみることも
必要なのではないか、そういうことです。

僕が現在住んでいる街には、美術関係の知人友人が多く、
環境としては勿論恵まれている面も多々あると思います。
しかし、そこから離れることもアリなのでは、と。
実際は引っ越しは大変ですし、仕事もあるので
不可能に近いですけど。
でも条件が整えば動きたいですね。
といっても、少し南下するぐらいになると思いますけども。

今の僕は芸術の香りのない、フラットな場所に憧れていますが
最近の日本ではそんな環境は珍しくなってきたかもしれないですね。
初めはアートがなくても、後から突然発生する可能性も・・・
自治体の親玉が言い出せば、ね。
「アートぶっこんでおけばいいっしょ」みたいな考えで始まると
最悪の結果が生まれてしまうでしょうけどね。

何故こんな冷めた気持ちが常にあるんだろう、と
自分でも思います。
それは僕が元々は美術畑の人間ではないからかもしれないです。
何処か離れた位置から見ているような部分が常にあるという・・・
嫌な感じの奴ですよね(笑)。

心が少し疲れているのかもしれないです。
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譲ったら負けなのか。

2018/06/06 20:07
負け、というか損をする、のかな。

日常で、例えば混雑している電車に乗っていると
するじゃないですか。
そういうとき、無理矢理ポジションを取ろうとする
人っていますよね。
自分が良ければそれでいい、という。
そんな人がもし、ぐいぐいと自分のほうに割り込んできたら
僕は譲ることが多いんですよね。

あ、でも余程腹が立ったら退かないですけど(笑)。

確かに、現代の日本の、特に都市部で生活をするには
エゴを出さないと潰されてしまうこともあるのかな、と。

しかし、うーん。

外国で滞在制作をする機会が増えて、
日本と海外(といっても色々ありますが)の違いに
より一層気が付くようになりました。
(別に外国万歳と言いたいわけではないんですけどね)

狭い歩道を歩いているとします。
人がひとりやっと通れるくらいの幅しかなくて、
前から誰かが来たら、脇に避けなくてはならないという。
そんな状況で、こっちが避けても何も言われないどころか
会釈さえ無いのが日本という国ですね。
勿論個人差はあって、「ありがとう」と言ってくれる人もいますが。
コミュニケーション不全というか、なんというか。

何か一言あれば、スムーズにいくことも
何も言わず、ぐいぐいと我を通すだけでは
悪い感情しか生まれないと思うんですよね。
ちなみに僕は「すみません」という言葉は
とても素晴らしい、美しいものだと思っています。
(この辺のことはまた別に書ければ、と)

それで。

譲る側、いや、折れざるを得ない側、というか。
それは損をするだけなのか。
では、こっちもエゴ剥き出しで人を潰すつもりで生きないと
いけないのか。
などともやもやすることも時々ありますが。

いや、それは断じて違うだろう、と。
確かに損はするでしょうし、疲れもするでしょう。
ただ、自分自身はそんな世界に負けずにいたい。
紳士でいたい。
紳士淑女とは一体何でしょうか。
パリッとしたスーツを着ていればいいのでしょうか。
僕の服装は野暮ったくて色々酷いという自覚はありますが(笑)。
心が大事、紳士は心だよ。
そう思っています。

それにしても酷いストレス社会ですね。
まったく、どうしようもねえな、くそが!(by 紳士)
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